詳しい当事者が必ずしも適当ではない

私の知り合いの中国人の大学教授は、もう日本にかれこれ20年以上いるし、ほぼ日本人なみの日本語を話される。
この方の講演は、私がこれまで見た聞いたいわゆる大学のセンセの話の中で最も分かりやすいものであった。
何故なのかなぁ、とちょっと考えてみたが、ま、よく分からない。
ただ、一つ思うのは、それは彼が目の前の日本人達に講演する際、やはりどこかで中国語的思考、論理を、日本語に訳しているのではないかしら、と。
その翻訳の過程の存在が、ワンクッション、彼の「専門的な」話を柔らかく、あるいはきちんとした論理の流れに組み立てる助けになっているのではないだろうか。
時々、英語は論理的で日本語はそうではないというような言い方をする人がいる。
でも、この中国人の先生の話を伺っていると、大事な事は当の本人の論理性であって、あるいは、(自分の母国語として)アウンで分かる話し方をついしてしまうから、日本語で非論理的になってしまうだけなんではないだろうか。なんてことを思ったりした。
おっと、今日の話はここが本旨ではない。
日本人が、お得意とする日本語で話すのではない、というシチュエーションになると、ちょうど上の中国人の先生が日本語出話す時のように、誰にもわかりやすい話をする事になるのではないかなぁ、と言う事なんだ。